熊本畳の歴史
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畳は日本の発明品
神話にも登場する畳
奈良時代の畳がいまも現存
畳は大陸文化の影響を受けずに生み出された、日本オリジナルの発明品です。この国の多湿な気候と独特の美意識の中で育まれてきた畳文化。その発祥は正確にはわかっていませんが、東大寺の正倉院に聖武天皇が使用した奈良時代の畳が保存されているだけでなく、日本最古の歴史書である『古事記』にも「畳」の文字を見つけることができるそうです。今では一般に広く普及した畳ですが、昔は地位の高い人たちだけが使用した高貴な敷物でした。
1505-
熊本いぐさのはじまり
室町時代の争乱のなか
名君によってもたらされたいぐさ業
熊本県でいぐさ栽培が始まったのは室町時代のこと。旧勢力の名和氏に代わって八代地域を平定した相良氏により、上土城(現・八代市千丁町大牟田)の城代として送り込まれた家臣・岩崎主馬忠久が、永正2年(1505年)にいぐさ栽培と製織を奨励したのが始まりとされています。この忠久公は文武両道に優れ、上土城の城代を39年間も務めた名君だったそうで、「八代藺草(いぐさ)の父」として現在にまでその功績が語り継がれています。
1750-
限られた地域で育まれたいぐさ業
いまだ畳は自由には使用できず
いぐさ栽培が許された村は5つ
長い年月を経ながら、八代に根付いたいぐさ栽培。江戸時代の宝暦年間(1750年代)には、当時の熊本藩主・細川霊感公がこの地のいぐさ栽培・製織を推奨したとの記録も残っています。しかし町民を中心に畳が普及していったこの時代でも、身分に応じた畳の厚み・縁柄の規制は解かれず、いぐさも自由な栽培が禁じられていました。当時の八代地域でいぐさを栽培できたのは5村のみ。文政3年(1856年)になっても、栽培面積は32.9ha程度でした。
1872-
明治維新、いぐさ業の発展前夜
明治維新で許された耕作の自由
次第に伸び始めた作付け面積
明治維新が起こると、畳に関する規制が解かれ、いぐさ栽培の自由が許されます。とはいえ明治前期の技術では、1日に1枚程度の製織と1戸あたり1反程度の作付けが精一杯。いぐさ栽培は決して高利を得られる商売ではありませんでした。作付け面積が目に見えて伸び始めたのは、明治43年に「野口式足踏機」が開発されてから。1日3枚の製織を可能にしたこの機械の登場をきっかけに、熊本は徐々にいぐさの生産量を伸ばしていくこととなりました。
1932-
技術革新と共に最盛期へ
戦中・戦後の困難にも負けず
発展し続けた熊本のいぐさ業
昭和7年(1932年)になると動力織機が登場し、近代製織が可能になります。この技術革新により、昭和11年(1936年)の作付け面積は約535haにまで躍進。備後畳の拠点であった広島・岡山に熊本から技術者を長期派遣するなどの努力も実り、品質面でも大きな向上がみられました。昭和中期に入っても、工業地帯へと姿を変えた岡山・広島とは対照的に、熊本畳の勢いは増すばかり。戦中・戦後の困難をくぐり抜け、大きな発展を遂げたのです。
2005-
日本畳を支える八代いぐさ
500年を超えた熊本いぐさ業
後世に伝えるべき伝統と歴史
住宅の洋式化、海外産の畳の増加に伴い、かつての勢いに陰りの見え始めた熊本畳。しかし熊本畳に関わる人々は、たとえ一時期の繁栄が過ぎようとも、この地の先人たちの知恵と技を受け継ぎながら日本の心ともいうべき文化を支えています。岩崎主馬忠久がいぐさを植えてから500年以上が経ったいまでも変わらぬいぐさ業という営み。熊本八代は国産いぐさの未来を一手に担う一大生産地域として、大切な役割を果たし続けているのです。